くきはの余生

リタイアしてようやくのんびり暮らせるようになりました。目指すは心豊かな生活。還暦目前で患った病気のこと、日々の暮らしや趣味のことなどを綴っています。

心よ・八木重吉

八木重吉の「心よ」を読みました。

『定本 八木重吉詩集』(弥生書房・刊)に収録されている1篇です。

詩集「秋の瞳」の中には心を詠った詩がいくつかあって、その中の1つです。 

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29歳という若さで結核でこの世を去ってしまった八木重吉の詩は、私が高校生の頃、学校の図書館でみつけて魅了されました。

短い言葉で心に響く表現が、まだ感受性が豊かで感傷的でだった文学少女の私の心をとらえたのでした。

心よ

            八木重吉

 

こころよ

では いっておいで

 

しかし

また もどっておいでね

 

やっぱり

ここが いいのだに

 

こころよ

では 行っておいで

 

 八木重吉の詩は2行、3行など短い作品もあって、詩と言って良いのかという意見もあるそうですが、短かろうが長かろうが、それを読んだ人の心を動かすことができるのなら、それは詩であるのではないかと勝手に思っています。

 10代後半の頃の私はかなり影響されていたこともあって、2~3行の短い詩を書いていたこともあります。

理論整然と説明がつかなくてもいい、心が感じたことを描き出して、あとは読者にゆだねるのも良いのではないかと思うのです。

「心よ」の詩で、私がハッとしたのは、自分の心を客観視しているところ。

普通心についての詩を書くのなら「自分の心」を主観的に書くように思うのです。

でも、この詩は「では いっておいで」と、他人事のように突き放しています。

 心を自分でコントロールしようとしないで、心のままに自由に飛び立ちなさいと解き放っているのが、私の中でとても新鮮で、当時、こんな表現があるのだなぁと感心したものでした。

 重吉氏はキリスト教徒だったそうなので、神の御心に任せてという意味もあるのかもしれませんね。 

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「やっぱり ここがいいのだに」のところも気に入っています。

方言なのかよくわかりませんが、「いいのだ」と断定するのではないのですね。

 「いいのだに」。私自身は使うことの無いだろう表現ですけれど、「に」が加わることで表現がやわらかくなって、奥に何かニュアンスを含んでいるような印象です。